戦後80年「秘密の中絶」うなりながら耐えた女性たち

2025/12/24 (水) 16:30

「キーワードで振り返る福岡」テーマは「戦後80年」です。戦争を体験した人が高齢になり直接、話を聞ける機会は年々、減っています。街の人たちや、後世に体験を伝えようとする人たちに改めて「戦争の記憶」を語ってもらいました。

89歳の女性
「私たちが子どものときは食べようと思っても、食べるものがなかったです。買おうと思っても買うことができませんでした。戦時中のことを少しでも若い人が分かってくれれば、こんなに物を粗末にするということはないだろうと思います。あまりにも粗末にしすぎるのではないかと思います」

74歳の女性
「父親の話で一番印象に残っているのは死なないために獣医になった。だから生きているんだっと言っていました」

77歳の女性
「その考え方はすばらしいと思います。そのころ日本は戦争に行ったら偉いって、お国のためと教えられていました。みんなそれに染まっているのに、あえて染まらないで生きて帰ってくる方法を選んだというのは、すごい平和主義だと思います。若い人たちに伝えたいことは、自分に関係のある平和を考えてほしいなって思います」

8月15日、福岡県主催の戦没者追悼式には遺族などおよそ650人が参列。先の大戦で失われた尊い命に哀悼の意を表しました。

福岡県 服部誠太郎知事
「戦後80年を迎え戦争を経験していない世代が多くを占める中で、平和の尊さを次の世代に語り継いでいくことは私たちに課せられた使命である」

街の人からは家族から語り継がれた戦争の記憶も。

66歳の男性
「父親は南方戦線で戦っていたし、母親は満州にいたので両方とも戦争体験はしています。父親は輸送船で魚雷攻撃を受けたと。僕に人間死ぬとき何をするか分かるかと聞きました。缶詰を開けて食べたらしいんですよ。いつ生きて帰れるか分からないから。食べられるときに食べておこうと、それが戦争だということを父親から聞きました」

この男性の母親は当時20代で看護師として従軍。終戦後、満州から博多港に引き揚げました。博多港には昭和20年の終戦直後から1年5カ月にわたり中国大陸や朝鮮半島などから139万人の日本人が引き揚げました。逃げる途中、女性が狙われる恐怖は日常だったと言います。

「略奪・暴行が当たり前にありました。身近にあったから髪は自分で切って短くして顔を汚して男の子みたいにして、女と思われると襲われますからそれで仲間の人たちと一緒に逃げたと聞きました」

戦後、筑紫野市にあった医療施設「二日市保養所」は、引き揚げの途中などに望まぬ妊娠をした女性が中絶手術を受けた場所です。

当時、その現場で看護師として働いていたのが村石正子さんでした。村石さんはすでに亡くなっていますが晩年「体験をなかったことにしてはいけない」と助産師たちを集めて勉強会を開き、記憶の継承に取り組みました。その勉強会に参加していたのが83歳の助産師平田喜代美さんです。平田さんは村石さんの言葉をメモに残していました。

平田さん
「彼女は看護師として中絶の介助をしたわけですね。終戦直後だから手術場という手術場もなくて保養所のお風呂場を手術場にして、麻酔も陣痛誘発剤という薬も一切ない中で麻酔なしの中絶介助をしないといけないわけですね。妊婦は犯してきた男たちに向けて小さな声でうなるように、畜生と言って村石さんの手をちぎれんばかりに握りしめながら耐えたそうです」

こうした悲劇が広く知られなかったのには理由がありました。

「中絶をしたら受けた方もした方も牢屋に入れられる堕胎罪というのがあって秘密の秘密で行われたわけですね。だから記録も何にも残っていないのです」

当時は語ることが許されず記録もほとんど残りませんでした。平田さんは幼い子どもを持つ保護者向けの育児支援活動を長年続ける中で、戦争の記憶を若い世代に伝えています。

「戦争が終わっても女と子どもがこんなつらい思いをするということ。だから2度と戦争を起こしてはいけないということを、私はぜひ若い世代にも伝えていきたいし、村石さんもそんな思いで私たちに話してくださったと思います」

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