福岡大空襲 記憶でつなぐ戦後80年 語り部が高齢化する今

2025/06/19 (木) 16:30

福岡の街を焼き尽くした大空襲から80年。戦争を体験した語り部の高齢化が進む中、記憶を受け継ぐ取り組みが広がっています。

高橋英人さん
「家や街や人を完全に焼き尽くしてしまうこと以外に、この戦争は終わりませんでした」

80年前、7歳で福岡大空襲を経験した高橋英人さんです。高橋さんは2024年、福岡市内の小学校で体験を話しました。

1945年6月19日の深夜200機を超えるアメリカ軍の爆撃機B−29が福岡市を襲いました。約2時間にわたって大量の焼夷弾を投下、天神から博多を中心に焼け野原になり、1000人近くが命を落としました。

高橋さんは当時、家族5人で福岡市中央区荒戸に住んでいました。空襲のさなか、4歳の弟の手を引いて大濠公園に逃げたといいます。

「ごった返す中で、弟の手がいつの間にか離れて…。でもまた握り返して、そんなことを繰り返していたんです。いつの間にか全く違う男の子の手を握っていました」

現在も語り部として平和の大切さを伝える高橋さん。しかし6月15日に予定されていた若い教員に戦争体験を伝える講演は体調不良のため欠席しました。代わりに登壇したのは4歳で空襲を経験した井形敏子さん84歳。福岡市の退職教員で構成される語り部グループの中で空襲を直接体験しているのは井形さんと高橋さんの2人だけです。井形さんは当時、福岡市から早良郡の農家に疎開していました。。防空壕での体験は、はっきりとした感覚として体に残ったといいます。
    
井形敏子さん
「防空壕に入ろうとしたときに中に水がたまっていました。そのとき膝ぐらいまで水がたまっていました。ミカン箱をいすにして座っていました。ぷくっと箱がおしりに当たる、そのぷくぷくと当たる感覚がずーっとかなり大人になるまでその感覚が残っていてとても嫌だったんです」

教員たちは真剣な表情で耳を傾けていました。こちらは教員の水上憲一さん31歳。富山県出身で、福岡大空襲について学ぶのは初めてです。

水上憲一さん
「富山県出身で福岡の空襲のことをよく知りません。それでも伝えていかなければいけないということで正しい知識を知ろうと参加していません」

井形さんの話を聞いたあと教員たちは、戦争の痕跡が残る市内の遺構をめぐりました。訪れたのは福岡市東区馬出小学校前のゾウの門。かつて旧福岡市動物園があった場所です。

教員
「大きな動物は旧福岡市動物園では射殺されています」

空襲によって園が破壊される恐れがあったため、多くの動物が殺処分され、閉園に追い込まれました。

次に訪れたのは、舞鶴公園に残る西日本の防衛を担った西部軍司令部の跡地。この壁は司令部を爆撃から守るために建てられました。壁の裏側には当時の爪痕が残っています。

「作戦室(司令部)のあった場所の壁の外側です。先ほど見た方は一般市民は絶対に見ることができない方、こちら側は見えていた、人が普段ここを通っていたという証言もあるのでみんなが見ていた壁だと思われます。ここに(コンクリートで)埋めたようなあとがありますが、焼夷弾の破片がつきささったんじゃないかとか、先輩の先生に聞くともっとたくさん銃撃の跡があったと、それを埋めたということですね」

高橋さんや井形さんから引き継いだ記憶を若い教員へとつなぎます。

水上憲一さん
「県外から来た自分としてはなじみのない土地というのはありますが、これが福岡だけではなく全国各地であったのかと想像しました」

水上さんは子どもたちに伝えることはもちろん、職場の同僚にも共有したいと話します。

「子どもたちだけに伝えると、僕の目の前の何十人かもしれませんが、隣の職員にも伝えればそれが倍になったりもするので、子どもたちと同時に職員にも伝えていきたいと思った」

戦争を知らない世代が記憶を引き継ぎ次の世代に伝え始めています。

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