記憶でつなぐ戦後80年 福岡県・太刀洗飛行場 東洋一の飛行場と特攻隊

2025/06/27 (金) 16:30

この写真は1945年3月27日に大刀洗飛行場の上空で撮影されたものです。約1000発の爆弾が投下され、大刀洗飛行場は大きな被害を受けました。

飛行場の跡地に建つ大刀洗平和記念館。第一次世界大戦で「航空機」が新たな兵器として注目されると、日本陸軍は1919年、大陸に近い大刀洗の地に飛行場を設けました。 昭和の初めには民間の旅客機も運航していました。しかし、日中開戦以降、大刀洗飛行場は次第に軍事色を強めていきます。

1940年には西日本に点在する飛行学校の本校として大刀洗陸軍飛行学校が設立され、さらに整備技術者の養成所や航空機の工場など、関連施設が次々と作られ、東洋一の飛行場と言われるようになりました。この九七式戦闘機は、1996年に博多湾の海底から引き揚げられた 日本に残る唯一の機体です。この機体は満州から鹿児島の知覧に向けて飛行中に、博多湾に不時着。本来なら知覧から特攻機として飛ぶ予定でした。爆弾を積んだ戦闘機などで標的に体当たりする「特攻」。太平洋戦争末期に日本軍が行ったこの自爆攻撃において、大刀洗飛行場はその中継基地として数多くの若き特攻隊員を見送りました。

そんな大刀洗飛行場が最初に空襲を受けたのは1945年3月27日。74機のB29爆撃機が1000発以上の爆弾を投下、航空機や施設はことごとく破壊されました。この時期に大刀洗飛行場が標的となったのは、翌月に行われたアメリカ軍の沖縄上陸作戦と関連しているといいます。

大刀洗平和記念館 梅津繁美さん
「大刀洗飛行場は沖縄上陸前に脅威となった飛行場です」

この日の空襲では「頓田の森の悲劇」がよく知られています。朝倉郡にあった立石国民学校の児童31人が命を落としました。同じ日に、大刀洗飛行場を挟んで西側にあった三軒屋でも、奇しくも校名が同じ立石国民学校の児童が空襲の犠牲になっています。

小郡市井上、道路沿いの石碑は今から20年前、戦後60年の年に建立されました。 大刀洗飛行場の空襲では、このあたりにも爆弾が投下され一般市民が犠牲になりました。 当時の地名から「三軒屋の悲劇」と呼ばれています。椛島新さん、88歳です。椛島さんは8歳の時に三軒屋で爆撃に遭いましたが、からくも生き延びました。

小郡市在住 椛島新さん(88)
「子どもたちが折り鶴を飾ってくれる、私は草取りをするだけでした」

当時椛島さんは国民学校の2年生。空襲があったその日、立石国民学校では終業式が行われていました。突然鳴り響いた空襲警報、児童たちは、急遽集団下校することになりました。

「歩く速さがだんだん速くなって、そのうち『走れ』となった時にはすでに、大刀洗飛行場には真っ黒な煙がもくもくと爆撃で上がっていました。煙が上がってしばらくして地面が揺れました」

三軒屋まで辿り着いた椛島さんは、赤松の木陰に身を寄せました。

「(爆撃機は)7機ずつ編隊を組んできました。私は一本松の陰に隠れて見つからないように下から見上げていました。怖かったですが。胴体がガラガラと開いて、爆弾がバラバラと落ちました」

爆撃機をやり過ごした椛島さんは次の編隊が来る前にと、自宅近くの用水路に飛び込みました。

「溝の中に入った人は一人も死んでいません。(溝に入らずに)走った人たちは、炸裂した爆弾の破片が飛んできて、首や腹を切られて死んだ人が多かったです」 

2008年、椛島さんは空襲の体験談を集めた文集を出版しました。700部を印刷し、県内はもとより全国の図書館や学校などに寄贈しました。

椛島さんの手記
「溝に飛び降りた途端、今、かき分けてきた林に爆弾が投下された。私たち兄弟は間一髪で助かった」

大塩禎子さん(当時8歳)の手記
「三軒屋の上空には爆撃機の大編隊が飛来しました。数えきれない爆弾が投下され、物凄い地響きでした」

自費出版の負担は決して軽くはなかったといいます。 そこには家族の理解と協力がありました。

小郡市在住 椛島新さん(88)
「何十万円もかかって妻からボロクソ言われて、その金があるなら農業に使えば収入になります。私も生活はあるけど、(空襲体験が)頭の中に突き刺さったものだから それを忘れて畑仕事をする気にはなれなかった」 

どの時点で戦争に傾きはじめるのか。椛島さんが文集に寄せた思いです。

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