【戦後80年企画】命の選択を迫れた女性たち

2025/07/15 (火) 16:30

終戦前後の混乱の中で命の選択を迫られた女性たちがいました。語られることの少ない戦争の負の一面を記録と証言から辿りました。

福岡市の博多港。昭和20年の終戦直後から、1年5カ月にわたり中国大陸・朝鮮半島などから日本人139万人が引き揚げてきました。

筑紫野市の高齢者施設の敷地には「仁の碑」と刻まれた石碑が建てられています。かつてこの地には「二日市保養所」がありました。この保養所は戦後、引き揚げてきた女性たちの検疫や療養を目的に設けられた施設です。さらに、現地や引き揚げの課程で様々な事情から望まぬ妊娠をした女性たちが中絶の手術を受けた場所でもありました。

この歴史を記録に残す活動を続けてきたのが市民グループ「引き揚げ港・博多を考える集い」メンバーの上村陽一郎さん89歳です。上村さん自身も幼少期を過ごした旧満州から10歳の時に家族とともに佐世保港に引き揚げました。

上村さん
「引き揚げの歴史はね。単なる引き揚げたって意味ではないんですよ。無残たるもの。持っている荷物を全部剥奪されたりね。そういう歴史があったことを残しとかないとね」

そして、引き揚げ当時のさらに悲惨な状況を話してくれました。

上村さん
「当時は堕胎というのが法律的にできなかった。それをあえて犯してでも女性を救うためにやったのです」

法を犯して、女性を救うために堕胎した。一体どういうことなのか。これは1998年にテレQが取材した映像です。映っているのは保養所で中絶手術を担当した医師です。神戸市に住んでいた産婦人科医の秦禎三さん、当時86歳。秦さんは終戦後、10カ月間にわたり違法と知りながらも、使命感に駆られ中絶手術を行いました。

秦さん
「15歳のお嬢さんがいたことが一番忘れられませんね。女の子がおられた。それは一番かわいそうでした」

手術はもう一人の医師と2人で行いその数は400件から500件に上ったと言います。麻酔もほとんど使えず女性たちは痛みに耐えながら手術を受けました。

「8カ月は普通の赤ちゃんと同じくらい泣くわけです。泣き声をお母さんに聞かしてはいけない。どんなことで妊娠なさったか分かりませんけれどもやっぱり母性本能というのはありますからね。自分の子どもの声を聞いたらたまらないと思います。お母さんに泣き声を聞かせたらいけないから殺して出すわけですね。とにかく口を抑えるよりしょうがない。声を出させない。こうしとったらすぐ死にます。殺人ですよね」

保養所の土の中には世に生まれることを許されなかった水子の魂が今も眠っています。

「頭から離れないですね。悲惨な姿がですね。彼女たちの。帰られるときの明るい顔も忘れられませんけどね」

戦争の影は、我が子の命の選択という耐えがたい現実を女性たちに突きつけました。引き揚げを体験し当時の状況を記録に残してきた上村さんは。

上村さん
「船が着いてもすぐには上陸できないんですよ。病気などいろいろな問題を船の上で検査をして大丈夫という人が降ろされます。だから二日市保養所までたどり着かないですぐに身投げされた女性もいるんですよ。博多港にね。あの当時は女性は今と違って地位が低かったから自分みたいな人間が耐えられないということで博多港に身投げしていたそうです」

十字架を背負ったのは声を上げることのできなかった人たちでした。

「戦争というものは戦場で戦う軍人だけではない。もっと悲惨な状態というのを国民は与えられていた。戦争は絶対しないような国であってほしい」

この記事をシェア

最新のニュース

  • テレQ|テレQ ニュースPLUS
  • テレQ投稿BOX
  • アナウンサーズ公式Xはこちら
  • テレビ東京|[WBS]ワールドビジネスサテライト
  • テレビ東京|Newsモーニングサテライト
  • テレビ東京|昼サテ
  • テレビ東京|ゆうがたサテライト